「所得が増えて税金が高くなってきた」「そろそろ法人化すべきか?」
クリニックを経営する多くの先生が直面する悩みが、医療法人化のタイミングです。
医療法人化は、大幅な節税や分院展開、事業承継の円滑化など多くのメリットがある一方で、社会保険の強制加入や交際費の制限、解散時の残余財産の帰属先など、個人事業主時代にはなかった制約も生まれます。
本記事では、個人クリニックから医療法人へ移行する際の判断基準となる「所得の目安」や、具体的なメリット・デメリット、設立までの流れを詳しく解説します。先生にとって今が本当に法人化すべきタイミングなのか、判断材料としてご活用ください。
クリニックの「医療法人化」とは、個人事業主として経営していたクリニックを、法律に基づいた「法人」組織に移行させることを指します。
最大の違いは、経営の主体が「先生個人」から「法人」に移る点にあります。個人事業主の場合、クリニックの利益はすべて先生の所得となり、所得税がかかります。一方、法人化すると、利益は法人のものとなり、先生は法人から「役員報酬」を受け取る形に変わります。この構造の変化により、税率の差を利用した節税や、親族への給与支払い、さらには分院展開といった個人では難しかった柔軟な経営戦略が可能になります。
医療法人化の最大のメリットは節税ですが、所得が低い段階で移行すると、設立費用や社会保険料の負担増が上回ってしまう可能性があります。また、法人化には半年以上の準備期間が必要なため、将来の収益予測を立てながらタイミングを見極めることが重要です。
法人化の損益分岐点は、一般的に「所得1,500万円〜2,000万円」と言われています。その理由は、個人の「所得税」と「法人税」の税率差にあります。
個人の所得税は累進課税により最高45%(住民税を含めると55%)まで上がりますが、法人税は中小法人の場合、年800万円以下の利益に対して約15%と低く抑えられています。所得がこのラインを超えると、個人で所得税を払うよりも、法人として課税を受け、残りを役員報酬として受け取る方が、世帯全体の手残り額が多くなる傾向にあります。
参考:国税庁|所得税の税率
参考:国税庁|法人税の税率
所得分散とは、院長一人の所得を家族(役員)に分けることで、世帯全体の税率を下げる手法です。 例えば、院長一人で2,000万円の所得を得るよりも、院長1,200万円、配偶者800万円と分ける方が、それぞれに低い税率が適用されます。この「所得の分散」ができるかどうかが、多くの開業医が法人化を選ぶ決定打となっています。
実際に、個人事業主から医療法人へ移行した場合、税金や社会保険料を含めた「最終的な手残り」がどう変化するのか、具体的な数値で比較してみましょう。
前提条件
| 項目 | 個人事業主 (法人化前) |
医療法人 (法人化後) |
差額 |
|---|---|---|---|
| 所得・利益計 | 3,000万円 | 3,000万円 | ‐ |
| 税金 (所得税・住民税) |
約1,080万円 | 約550万円(合計) | ▲530万円 |
| 法人税 (実効税率約33%) |
0円 | 約150万円 | +150万円 |
| 社会保険料 | 約100万円 (国民健保上限) |
約340万円 (折半負担込) |
+240万円 |
| 社会保険料 | 約1,820万円 | 約1,960万円 | +140万円 |
なぜ、同じ利益でも法人化によってこれほど手残りに差が出るのでしょうか。その理由は大きく分けて2つあります。
個人事業主の利益はすべて「事業所得」ですが、法人から支払う報酬は「給与所得」扱いとなります。給与所得には、経費の概算控除である「給与所得控除」が適用されます。 院長と奥様の二人に報酬を支払うことで、世帯全体で350万円以上の控除を上乗せでき、課税対象額を劇的に圧縮できます。
参考:国税庁|給与所得控除
最高税率が55%にも達する個人所得税を回避するため、院長個人の報酬はあえて一定額に抑え、残りの利益を低い税率(約15%〜)の法人側に残します(内部留保)。 この「高い個人所得税」から「低い法人税」へのシフトこそが、医療法人化による節税の真髄です。
医療法人の設立には、株式会社などよりも厳しい要件が課せられています。まず、医療法に基づき、非営利性が求められる点が大きな特徴です。また、自治体による認可が必要なため、形式的な条件をすべてクリアしていなければなりません。
医療法人設立には、原則として「理事3名以上」と「監事1名以上」の計4名が必要です。理事には院長先生やその親族が就くことが一般的ですが、監事は法人の監査を行う立場であるため、基本的には第三者(親族以外)や、利害関係のない知人、または職業専門家にお願いすることになります。なお、都道府県によっては、歯科医師1名のクリニックなど小規模な場合に、理事数を減らす特例が認められるケースもありますので、事前の確認が必須です。
法人化にあたっては、クリニックを運営し続けるための「拠出(出資)」が必要です。一般的には、個人診療所で使用していた医療機器や薬品在庫、運転資金としての現金を法人へ引き継ぎます。
あわせて注意したいのが、個人時代の「銀行融資(債務)」の取り扱いです。医療機器などの「設備資金」に関する融資は原則として法人へ引き継ぐことが可能ですが、「運転資金」名目の融資は、法的な制限等により法人へ引き継げないケースが多々あります。その場合、法人での借り換えを検討するか、引き続き個人として返済を続ける必要があります。
なお、2007年の法改正以降、新設される医療法人は「持分なし」となります。拠出した資産は法人の所有物となり、将来退職する際に拠出額以上(含み益など)を引き出すことはできません。資産と負債の両面から、慎重な検討が必要です。
参考:厚生労働省|「持分なし医療法人」への移行に関する手引書
法人化の手続きを進める前に、以下の項目をクリアできているか確認しましょう。すべてにチェックが入る場合は、法人化のベストタイミングと言えます。
医療法人化には、税制面だけでなく、経営の安定性や将来設計において強力なメリットがあります。
個人にかかる所得税は、所得が増えるほど税率が跳ね上がりますが、法人の利益にかかる法人税は税率が一定、かつ個人所得税よりも低く設定されています。利益の一部を法人に「内部留保」として残すことで、高い所得税を回避しつつ、将来の設備投資や退職金の原資を効率的に蓄えることができます。
院長先生や家族役員が法人から受け取る報酬は「給与所得」扱いとなります。給与所得には、経費の概算控除のような役割を持つ「給与所得控除」が適用されます。これにより、法人側では給与を全額経費(損金)にでき、受け取る個人側でも一定額が非課税になるため、二重の節税効果が生まれます。
現在の医療法人は「持分なし」のため、クリニックの価値がどれだけ上がっても、その評価額が院長先生個人の相続財産に含まれることはありません。個人事業主の場合、クリニックの資産価値が相続税の対象となりますが、法人化によって将来の相続税負担を大幅に軽減できる可能性があります。
医療法人とは別に、営利目的の「MS法人」を設立し、事務代行や不動産管理を委託するスキームがあります。医療法人では制限されているサプリメント販売などの収益をMS法人に集約したり、委託料を支払うことで利益をさらに分散させたりと、より高度な節税戦略が可能になります。
医療法人とは別に、営利目的の「MS法人」を設立し、事務代行や不動産管理を委託するスキームがあります。医療法人では制限されているサプリメント販売などの収益をMS法人に集約したり、委託料を支払うことで利益をさらに分散させたりと、より高度な節税戦略が可能になります。
個人事業主の場合、生命保険料控除には数万円の上限がありますが、医療法人で院長を被保険者とする保険に加入すれば、保険料の全額または一部を「法人の経費」として落とすことができます。これにより、節税しながら高額な退職準備金や死亡保障を確保することが可能になります。
メリットが多い法人化ですが、一方で「お金の自由」が制限されるなど、注意すべき点も存在します。
法人化すると、役員や従業員の社会保険(健康保険・厚生年金)への加入が義務付けられます。これにより、法人は保険料の約半分を負担する必要があり、経営コストが増大します。ただし、既存の「医師国保」に加入している場合、一定の手続き(適用除外承認)を行うことで、健康保険は医師国保のまま、年金のみ厚生年金に切り替えることも可能です。
医療法人は、毎年の事業報告書や決算届を都道府県に提出する義務があります。また、資産の総額を登記する必要があるなど、事務作業の負担が大幅に増えます。顧問税理士への報酬も、個人時代より高くなるのが一般的であり、これらのランニングコストを上回るメリットがあるかを検証しなければなりません。
医療法人は「非営利性」を求められるため、株式会社のように利益を「配当」として分配することが法律で禁止されています。また、法人が解散する際の「残余財産」は、国や地方公共団体などに帰属することになります。一度法人化したお金は、役員報酬や退職金として受け取る以外に、自由に引き出すことはできないという覚悟が必要です。
医療法人の設立は、株式会社のようにいつでも登記できるわけではなく、認可申請から運営開始まで最短でも6ヶ月〜1年程度の期間を要します。提出書類は、設立趣意書や定款、役員の就任承諾書、履歴書、財産目録など多岐にわたり、膨大な準備が必要です。
全体の流れを把握し、余裕を持った計画を立てましょう。
医療法人設立スケジュール表
| 時期 | 工程 | 内容 |
|---|---|---|
| 設立6ヶ月前 | 事前準備 |
|
| 設立5ヶ月前 | 事前相談 |
|
| 設立4ヶ月前 | 設立認可申請 |
|
| 設立2ヶ月前 | 設立認可・登記 |
|
| 設立1ヶ月前 | 保健所・厚生局手続き |
|
| 当日 | 医療法人運営開始 |
|
最も注意すべき点は、都道府県ごとに**「設立認可申請」の受付が年2回程度**に限られていることです。この限られた受付期間を逃すと、設立が半年先送りになってしまいます。
申請後も、保健所での開設許可申請や厚生局での保険医療機関指定手続きなど、各段階で厳密な期限が定められています。そのため、専門家と相談しながら、希望する運営開始日から逆算してスケジュールを組むことが不可欠です。
自治体によって「仮受付(事前相談)」の有無や時期が異なります。
| 自治体 | 申請回数 | 主な申請時期 (目安) |
特徴 |
|---|---|---|---|
| 東京都 | 年2回 | 4月・10月 | 審査が非常に厳格で、事前相談が必須。 |
| 大阪府 | 年2回 | 1月・7月 | 申請前に「仮申請」の期間があり、ここでほぼ内容が決まる。 |
| 愛知県 | 年2回 | 5月・11月 | 認可から登記まで約4ヶ月。余裕を持った計画が必要。 |
| 福岡県 | 年2回 | 6月・12月 | 県域により窓口が分かれるが、時期は統一されている。 |
開業医の先生からよく寄せられる疑問をQ&A形式でまとめました。
A. 可能です。 通常、法人化すると協会けんぽ等の社会保険への加入が義務付けられますが、「健康保険適用除外承認」を申請することで、健康保険のみ「医師国保」を継続し、年金のみ「厚生年金」に加入するという選択ができます。これにより、個人の保険料負担を抑えられるケースが多いです。
ただし、手続きの期限には注意が必要です。法人登記後、年金事務所へ「健康保険・厚生年金保険新規適用届」を提出する際、同時に(または事実発生から14日以内に)「健康保険被保険者適用除外承認申請書」を提出しなければなりません。この期限を過ぎると原則として医師国保の継続が認められず、強制的に協会けんぽへ切り替わるリスクがあるため、登記後は速やかに手続きを行うことが不可欠です。
A. 基金拠出契約を活用しましょう。 設立時に拠出した現金や資産は「基金」として法人に貸し付けている形にできます。法人の手元資金に余裕ができた段階で、院長先生個人へ無利息で返済を受けることが可能です。ただし、評価額が上がった分(含み益)は回収できないため、事前のシミュレーションが重要です。
A. 法人のほうが「欠損金の繰越期間」が長いため、メリットになる場合もあります。 個人事業主の純損失の繰越期間は3年ですが、法人は10年間繰り越すことができます。一時的な赤字であれば、将来の利益と相殺できる期間が長いため、税務上のリカバリーがしやすいという側面もあります。
参考:国税庁:青色申告書を提出した事業年度の欠損金の繰越控除
A. 「お金の自由度」が下がることです。 法人の利益は「院長個人の財布」ではありません。私的な支出を法人の経費にすることは厳格に禁じられ、役員報酬も一度決めたら1年間は変更できません。生活費を臨機応変にクリニックの口座から引き出していた先生にとっては、ここが最大のハードルとなります。
医療法人化は、適切なタイミングで行えば、大きな節税効果と経営の安定をもたらします。しかし、一度法人化すると、個人の時のような「自由にお金を使う」感覚は失われ、厳格な会計管理が求められます。
「今の所得でメリットが出るのか」「将来の承継はどうするか」など、多角的な視点での検討が欠かせません。まずは現在の収支をもとに、専門家による精度の高い節税シミュレーションを行うことから始めましょう。先生にとって最適な経営形態を選択することが、クリニックのさらなる発展への第一歩となります。